12/15/2013

コンフォートゾーンと成長の話

今日はちょっと哲学チックな話。

前も書いたが、僕は結構ひねくれている。人の言う「当たり前」を当たり前に受け入れたくない傾向が強い。

ということで、今日はひねくれたコンフォートゾーンの話。


人は言う。「成長するためには、自分のコンフォートゾーンから出る必要がある」と。
賛成だ。異論はない。多分、僕はハワイで言葉の壁にぶつかって、研究に苦しめられて、大変成長していると思う。


けれど、だ。
僕は、この世にコンフォートゾーンから出続けたまま死んだ人間がいたのか、甚だ疑問である。多分そういう「コンフォートゾーン」論者も、結婚するとなれば自分が最も居心地の良い人を選ぶだろうし、一番やりたい仕事を選ぶと思う。なぜそこで、最も居心地の悪い人と結婚し、子供を10人くらい産んで財政難に苦しみ、しかも最もやりたくない仕事に就くというような選択に行き着かないのか。お宅の理論によれば、それが最も「成長出来る」人生ではないのか。

答えは簡単だ。みんな、生き辛い人生は嫌なのだ。恐らくいかなるコンフォートゾーン論者も、彼らが「快適に生きられる」という前提のもとで、「コンフォートゾーンから出ましょう」と言っている。もちろんこれは人として当然の選択だと思うのだが、だからこそコンフォートゾーン論者は己の限界を知らねばならないとも思う。つまり、「我々が人間である限り、コンフォートゾーンから出続ける人生は選べない」と。結局コンフォートゾーン理論は、マクロなコンフォートゾーンの中で、ミクロなコンフォートゾーンから出て喜んでいるに過ぎない。そして、誰もそのマクロなコンフォートゾーンについては検証しようとしない。ぼんやり誤魔化して、そのままにしておく。そこを検証すると、足下がゆらぐからだ。

改めて言うが、僕はコンフォートゾーンから出る価値を否定しない。大いに賛成だ。
でも、「みんな、コンフォートゾーンから出て俺みたいに成長しようぜ」とか自己啓発セミナーで語る人がいたら、「ではお宅に今の地位と財産を全て放り出して、今いるコンフォートゾーンから出る覚悟はお有りですか?」と問いたい。

同時に、コンフォートゾーンから出続ける人生は、宗教的な「苦行」とは異なるとも思う。「常に不快な人生を選ぶ」ことと、「禁欲主義」や「施しの生き方」は違っていて、前者の方が辛いと思う。そんなわけで、「常にコンフォートゾーンから出続ける人生」を選んだ人がどのような超人になるのかにも、興味がある。