9/10/2014

プロとして

先日、待ちに待った、大学と中国政府からの招聘状が届いた。ビザの申請も問題なく出来たので、これでいよいよ本当に全てが決定した。今週出国。

ということは、これで僕は大学の英語講師になる。大学の英語講師になるという事は、英語を教える事だけでおまんまを頂くということであり、言ってしまえば英語教育のプロフェッショナルだ。
英語教育のプロとして、その責務について考えて書き始めたら、論文一本書ける位の長さになりそうだったので、途中まで書いてやっぱりやめることにした。笑 どうしても今言っておきたい事だけ書いておく。

この世の中に英語を教えられる人は星の数ほど居て、それ故「そんなに大した事じゃないやい」とか「やろうと思えば自分にも出来る」と言われがちなのがこの職業だと思っている。おまけにことばの習得には時間がかかるので、短期間ではプロと似非プロの教育効果に大差は見られない。

けれど、英語教育は多彩で奥が深い。ことばの学習自体が大変複雑なプロセスである上、ことばで出来る事も無限大だからだ。得てして学習者は「英語学習」を一枚岩で捉えてしまうが、その実、彼や彼女の興味関心はコミュニケーションにあるかもしれないし、統語論にあるかもしれないし、音声学かもしれないし、受験や昇進にあるかもしれない。「ことば」とは言語学、音声学、社会学、社会言語学、人類学等々、分野横断的に扱われるから、そのアプローチ方法はまさに無限大。さらにコミュニケーションが目標であるにも関わらず統語論のアプローチを好んだり、受験勉強のために英語を勉強しているはずが、社会言語学の話をした方が学習能率が上がったりする人も居るからややこしい。この辺りは、個人のバックグラウンドで大きく異なる。

要は、英語学習とは決して一枚岩ではない。だからこそ、学習者が発する「それ面白い!」という一瞬の瞳の輝きに敏感に反応して話を膨らませたり、情報を与えたり、アプローチ方法を変えたり出来るようになれば、学習効率は上がる、と信じている。またそれが、プロと似非プロを分けるのだと信じたい。
英語教育ごとき出来る人はたくさんいるのかもしれない。でも授業中の一挙手一投足、言葉の端々に「さすがプロだなぁ」と思わせる何かを見つけて、磨いていきたい。それによってより多くの人の学習目標が達成できるのなら、尚更。



0 件のコメント:

コメントを投稿