10/01/2014

新ブログ

ご無沙汰です。
なんだかんだありましたが、無事中国に居ます。
新しいブログを立ち上げてみましたので、ご興味おありの方は、是非ご覧下さい。
↓↓


これからも、大学院留学の情報で追加出来る事があれば、こちらのブログの「NOTES」を更新していきたいと思います :)

9/11/2014

How's your life going?

アメリカから去って一月半。一月半しか経っていないけれど、すでに彼の地で親しかった友人たちと、"How's your life going?"というメールやメッセージのやり取りを何通かしている。あっちからも、こっちからも、よく送る。

多分、「最近どう?」というメールやメッセージを、日本人に日本語で送ったことは数えるほどしかない。一年交換留学した外国人に、彼らが去ってから一月半の間に「最近どう?」というメッセージを送ったことも、ない、と思う。

これが文化差なのか、僕個人の問題なのか、あるいはその両方なのかはよく分からない。でも絶対そういうやり取りはあった方が良いよなと思ったし、アメリカの方がそういう行為をより多くの人が、より「自然」に行っていることは間違いない。あの国はそういう意味で温かい国だなと改めて思う。そういうところが好きだ。

そんな小さな気づき。



9/10/2014

プロとして

先日、待ちに待った、大学と中国政府からの招聘状が届いた。ビザの申請も問題なく出来たので、これでいよいよ本当に全てが決定した。今週出国。

ということは、これで僕は大学の英語講師になる。大学の英語講師になるという事は、英語を教える事だけでおまんまを頂くということであり、言ってしまえば英語教育のプロフェッショナルだ。
英語教育のプロとして、その責務について考えて書き始めたら、論文一本書ける位の長さになりそうだったので、途中まで書いてやっぱりやめることにした。笑 どうしても今言っておきたい事だけ書いておく。

この世の中に英語を教えられる人は星の数ほど居て、それ故「そんなに大した事じゃないやい」とか「やろうと思えば自分にも出来る」と言われがちなのがこの職業だと思っている。おまけにことばの習得には時間がかかるので、短期間ではプロと似非プロの教育効果に大差は見られない。

けれど、英語教育は多彩で奥が深い。ことばの学習自体が大変複雑なプロセスである上、ことばで出来る事も無限大だからだ。得てして学習者は「英語学習」を一枚岩で捉えてしまうが、その実、彼や彼女の興味関心はコミュニケーションにあるかもしれないし、統語論にあるかもしれないし、音声学かもしれないし、受験や昇進にあるかもしれない。「ことば」とは言語学、音声学、社会学、社会言語学、人類学等々、分野横断的に扱われるから、そのアプローチ方法はまさに無限大。さらにコミュニケーションが目標であるにも関わらず統語論のアプローチを好んだり、受験勉強のために英語を勉強しているはずが、社会言語学の話をした方が学習能率が上がったりする人も居るからややこしい。この辺りは、個人のバックグラウンドで大きく異なる。

要は、英語学習とは決して一枚岩ではない。だからこそ、学習者が発する「それ面白い!」という一瞬の瞳の輝きに敏感に反応して話を膨らませたり、情報を与えたり、アプローチ方法を変えたり出来るようになれば、学習効率は上がる、と信じている。またそれが、プロと似非プロを分けるのだと信じたい。
英語教育ごとき出来る人はたくさんいるのかもしれない。でも授業中の一挙手一投足、言葉の端々に「さすがプロだなぁ」と思わせる何かを見つけて、磨いていきたい。それによってより多くの人の学習目標が達成できるのなら、尚更。



8/31/2014

NOTES

出願書類について」を公開しました。

会わねば。

日本に帰ってきてからおよそ1ヶ月。スーツケースの中身を考えながら過ごす夏は、これで3年目だ。
この夏は、「お礼参り」の旅をたくさんした。お世話になった研究室や先生方に修了と就職のご報告。過去へのけじめと、未来への一歩。皆温かく迎えて下さり、「ハワイはどうだった?」「中国の話を聞かせてね」なんて世間話。積もる話をして、酒を酌み交わす。名残を惜しんで「また是非お話しましょうね」と言って別れる。話の流れでお土産を頂いたり、お仕事を頂いたり、人を紹介して頂いたり。
今の時代お礼のメール一本書くのは造作も無いことだが、それでは「つながり」は希薄になるし、こういう「頂き物」も出来ないだろうし、何より誠意がないから気に食わない。

ありきたりかもしれないが、やはり人には会わねば始まらないと思う。Facebookでどんなに近況報告を見ていても、会って話すのとは全然違う。デジタルで手軽な手段は、会えない時間を埋めるために存在している、と考えたい。

世界を飛び回るからこそ、会いたい人には、やはり会わねば。


8/24/2014

life is やっぱり random.

色々と、報告しなければならない事がある。ランダムに色々起こったので。

まず、論文が受理され、無事に修士号を取得することが出来た。論文締め切りの2週間前に査読者を変えるとか、まぁそれなりにハプニングは起こったのだけれどなんとか提出する事が出来た。気分が向いたら2年間のまとめを書こうと思っている(けど、前に回顧録を書くとか意気込んでいた気もするが、一向に気が向かないからなぁ(笑))。

もう一つは卒業後の進路について。これについては順を追って書かねばなるまい。
実は前回のエントリー(2ヶ月も昔か・・・)で「job huntに関しては上手くいっている」と書いたとき、僕はとある大学からsummer jobの内定をもらっていた。6月末から9月4日までの契約で英語を教える予定だった。

ところが、
人生はランダム。


内定をもらってから数日後、授業開始の4日前に僕がSSN(Social Security Number)を持っていないことが大問題であると判明。SSNについての詳しい説明は省くが、とにかくそれがないと合法的には働けないのだという(ITINじゃあかんのか?)。ということで、とにかく八方手を尽くしたが万事休す。その二日後、授業開始の2日前に僕は一度得たはずの職を失った。

教科書ももらって、新人(?)研修も出て、自己紹介もしたのに、失った。


でも全然気にしてなかった。もう人生こんな事だらけだから慣れてる。


その大学での職を失った数日後、「あぁ俺これから先どうやって生きていこう」と至極不真面目に考えているさなかに、中国の大学の英語講師の枠に応募した。こちらは一年契約(更新制)の常勤講師。通常東アジアの大学英語講師枠は「ネイティブスピーカーに限る」という(胸くそ悪い)制限がつくのだが、その大学は「ネイティブスピーカーまたは英語の堪能な外国人」という枠だったので、割と軽いノリで応募した


ら、受かった。
ランダム。

奇しくも内定通知は論文受理の通知と同日だったので、職と卒業が同時に決まった。7月1日は特別な日になりそう。

ついでに言っておくと、仮に僕がSSNを持っていて、仮にアメリカの大学でのsummer job(非正規雇用)を受けて9月4日まで働いてしまっていたら、9月1日付けで始まる中国の大学正規講師の枠を逃した事になる。SSNを持っていないがためにより大きな魚を獲られたわけだ。不思議なご縁である。

まぁとにかく、次の舞台が中国に決まった。




・・・と、本来ならここでこのエントリーを投稿する予定だった。一ヶ月も前に。
その一ヶ月の間に何があったのか。


事もあろうに、向こうの大学と音信不通になったのである。


中国の大学から内定をもらった直後から、僕は向こうの秘書と連絡を取り合い雇用契約・労働ビザ関係の話を進めていた。それが、7月の半ばにぷっつり途切れたのである。
メールが返ってこない。学部にも、大学そのものにも電話が通じない。大学にメールを送るとエラーが返ってくる(!)。意を決して在中国日本大使館に電話すると、日本語も英語も通じない(!!)。

僕は詐欺の可能性を疑い始めた。お金は払っていないものの、個人情報は渡す事になっている。
そして一度疑い始めると全てが悪い方に筋が通る。

東アジア地域(それも国立大学!)でノンネイティブを英語講師として雇ったのも、
面接の2日後に採用が決まったのも、
妙に待遇が良いのも(保険・航空券・住居費など全てカバーされてかつ有給のバケーションつき)、
大学と連絡がつかないのも、
jobの広告に出ていたProfessorを名乗る人物が全くインターネットに引っかからないのも、

全て筋が通る。お金を払わない以上、こんな手の込んだ詐欺はメリットが少なすぎるから可能性は低いと思ったが、しかしあり得ない話では無い。

僕はこの大学の採用が決まった時点でハワイを引き上げてしまったので、ビザの都合上もうハワイに帰る事は出来ず、もし仮にこれが全て壮大な嘘っぱちだったら、塾の講師でもやって食いつなぐしか無い。いくらランダムな人生に慣れているとはいえ、さすがに参ってしまった。


悶々と一月も考えて居たところ、ある日の午前2時頃、"I'm so sorry for the late reply..."という文で始まる秘書からのメールが来た。"due to the limited access to the Internet while I was attending meetings and on vacation..."



ん?

on vacation?



on vacation?




on vacation?


突如として消息を絶ち、3週間外界とのアクセスを遮断する。なるほどvacationとはかくあるべきか。
まぁ、いずれにせよ連絡は再開し、僕のcross-cultural toleranceはもう一段階上に達した気がした。今は向こうの大学からの書類待ちの段階(来るといいなぁ)。



これから先、授業が始まるまでに何が起こるかまだまだ油断は出来ないけれど、もしきちんと職が用意されているのならば、こんなに楽しみな事は無い。また英語を教えられる事が楽しみなのはもちろん、日本人が中国で英語を教えるという奇妙なシチュエーションが、面白くないわけがない。その様子をこのブログにアップするのか、別のブログを立ち上げるのか、あるいは全くアップしないのかは分からない。けれどこれからも「世界の中の日本の英語教育」をいつも頭の片隅に置きつつ、僕は楽観的に、真剣に、地球上のどこかで生きているのだと思う。



6/23/2014

life is...

一月ほど前に、卒業式に出席した。
論文を仕上げるために卒業を夏まで延ばしたので、学位はまだだが、とりあえず2年間のコースワークを終えたということで。


留学準備も、留学中も、苦しいことがたくさんあった。涙を流したいほど悔しい思いを何度も経験して、自分の力不足や現実にぶち当たり、手の届かない存在に何度も出会っては自分の存在価値に疑問を持つ日々だった。


でもまあ今思い返してみると、


うん。やっぱり辛かった。笑


それは今もまだ留学が続行中で、自分の成長が分からないからかな、と思うのだけれど。

ただとりあえず、「言葉について何不自由なく生活出来るって、もうそれだけで人生イージーモードだよな」という境地には至った。笑 不思議なもので、だから「日本に帰りたい」とは思わなくて、だから「もっと自分を苦しめたい」「別の言語と国でこの感覚を味わいたい」と思っている。マゾ。


さて、なぜ一ヶ月も前の卒業式の話を今持ってきたかというと、はっきり言ってそれどころじゃなかったからだ。卒業式とか余計なプレッシャーでしかなかった。笑
4月の末から、研究助成への応募、job applicationの開始、学期末に向けたプレゼンとterm paperの準備・執筆、卒業と研究に際するペーパーワーク、そしてもちろん論文と、すべてが一気に降りかかった。4月末~5月二週目までは、本当によく病気にならなかったという位精神的に追い詰められていた。その忙しさは形を変えつつ今も続いていて、きっと社会に出たらこんな感じが続くのかなと思ったり(あぁ一生アカデミアにいてぇ)。

job huntに関してはなんとか上手くいっているようで、論文も昨日何度目かのドラフトを教授に送ったので今この瞬間は少し落ち着いている。
論文の締め切りはなんと10日後なので、これからまた忙しくなるわけだが、同時にこの辛く忙しい大学院生生活もあと10日で終わりを迎える。


さて、次のステージはどこになることやら。
実はまだはっきりしていない。

Life is random.

それで良いか、と。


5/12/2014

NOTES

昨日の今日ですが、「学費と奨学金」のページの「学費」について、大幅に加筆・修正しました。

4/24/2014

国際交流の思い出

何となく、思い出したことを書こう。



あれは、大学一年の頃だ。

僕が大学一年の頃から所属していた国際交流サークルは、新しく日本に来た交換留学生のお世話をしたり、留学生と日本人が一緒に楽しめるイベントを作ったりするのが主な目的で、そうした活動を通じて、僕は当時一人のフィンランド人と仲良くなっていた。

彼は僕よりも一つ年上で、笑顔が素敵な皮肉屋さんだった。笑
留学生にはありがちだが、彼もまた「日本の女の子はカワイイですねー」とか「この街のred-light area(分からない人は調べて笑)はどこですか」とか「日本のアニメは・・・」とかなんとか色々話してた。優しくて面白くて、そして少しニヒルな感性を持ち、感情的な奴だった。


2008年の僕の誕生日。
その日はサークルの友人たちに、ちょっとしたホームパーティを開いてもらった。本当にちょっとした物で、ただみんなでご飯を食べただけの、単なる宅飲みに近かった。
誕生日が終わって数日後、僕と、サークルの友人、そしてそのフィンランド人と学食でご飯を食べていた。当時僕とそのサークルの友人は英会話に楽しみを覚えたばかりだったので、その日はみんな英語で会話していた。

どういう拍子だったか、彼が言った。

「誕生日には、ホームパーティがあったんでしょ?」

僕は答えた。

「うーん、まぁ、あったよ」

僕はそのあと、「でも小さなもので、パーティじゃなくて誕生日にかぶせてみんなで飲んだだけ。」というような旨を続けたかったのだが、彼がさえぎった。




Without me. We are not friends any more.




ハッとした。
彼を見た。
眼から涙がこぼれていた。


分からなかった。
いや、なんとなく頭で理解はしたけど、「そんなに感情的になることなのか?」と問わずにはいられなかった。宅飲みに友だちを誘ったり誘わなかったりというのはよくある話で、それは友人関係とイコールではないじゃないか、そんな事は当たり前じゃ無いか、と。




今、外国で数ヶ月過ごし、言葉の壁にぶつかり、乗り越え、またぶつかっている僕には、やっと彼の気持ちが分かる。
異国で言葉の壁にぶつかる人間が、ネイティブの友人を作る事がどれほど大変で、やっと出来た(と自分では思った)友人から誘われない事がどれだけ悲しいか。自分と異国とをつなぐゲートキーパーが—たった数人のそのゲートキーパーが—自分専用ではないと理解する瞬間。それは自分が本当に独りぼっちに思える瞬間なのだ。


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追記:実はこのエントリーは、今から一年も前に「下書き」として未完のまま放置されていたものだ。今見直して、加筆して、公開してみた。
友人が自分専用ではないというのは当たり前の事なんだけど、本当に独りで生活しないといけない時、「やっと出来た友だち」の価値はすごく大きくて、依存度が高まる。でもその気持ちは経験してみないとなかなか分からない。

僕はこのサークルに居たときから、国際交流(「交流」一般とも言える)を勝手に「異なる文化背景を持つ人々が、感情を共有する行為」と定義している。国際交流とは3F(Food/Festival/Fashion)のような表層交流ではなくて、「違うけど同じ」を文字通り「実感」する行為だと。だから、時に「国際交流」はすごく時間がかかる。僕にとって、彼との国際交流は4年かかったわけだ。

これを書いたのは2013年の5月くらいだから、ちょうどハワイに慣れてきて、insiderとしての自分とoutsiderとしての自分の気持ちが入り乱れていた時だと思う。今となっては友だちは沢山いるし、こっちから飲みに誘ったりも出来る。ハワイ大学の院生として、insiderだなと思える。それは嬉しいけれど、だからこそ忘れてしまう事もあるのだ。今では書けない、当時の素直な気持ちがこの「下書き」に表れている気がした。



4/18/2014

たくさんのはじめて

修士課程が終わりに近づいてきて、同時に新しい生活の準備が始まっていて、たくさんの「はじめて」を経験している。修論も、職探しも、職探しのためのペーパーワークも、新しい家探しも、卒業に際するペーパーワークも。

ストレスではあるけど、とても刺激的だ。
何にしても「はじめて」はとても緊張するし、精神的な負担も大きい。けれど、マンネリ化した生活を活性化させてくれるから嫌いではない。

「はじめて」が嫌いでは無いのは、同時に、アメリカにいるからだな、とも思う。つまり今まで英語を使わなかった分野で英語を使うから。そして今まで触れなかった側面の「アメリカ」に触れるから。
銀行に電話をしたり、職探しをしたり、面接を受けたり、雑務をこなしたり。日本で「勉強した英語」から離れて、「ああ、今英語を使っているな」って思えるから。自分の居場所である寮や教室やキャンパスを離れて、新しい世界を開拓していくから。

この前成長は目に見えないと書いたばかりだけど、こんな風に自分でも分かる成長もある。今、毎日が目まぐるしくて楽しく感じる。


今日もまた、「はじめて」に向かう

4/15/2014

最後のプレゼンテーション

2週間ほど前に、とある授業でプレゼンがあった。一授業(3時間)まるまるプレゼンテーションという鬼畜ぶり。テーマは"Reflective Teaching"。つまり、教師としての「自省」という行いについて。
終わってから気がついたのだけれど、修士課程としては2年間で最後のプレゼンだった。

先週、教授からの評価シート+クラスメートからのfeedbackが返ってきた。
教授からの評価は40/40、つまり満点。"You did an excellent job"とのコメント。クラスメートからのfeedbackにも"excellent", "I really liked your seminar"というコメントがあって、"What was the weakness of the presentation?"という質問には、空白か、"None!"というコメントしかなかった。

僕が初めて授業でプレゼンをしたのは1年半前、社会言語学の授業だった。テーマは「日本の英語イデオロギー」。20分のプレゼンのために、緊張と準備不足で2時間ほどしか眠れず、前日からレッドブルを3本入れて臨んだのを覚えている(というか、レッドブルを10時間ごとに一本注入し続けたら、眠れなくもなるか)。それでも、僕は日本語でのプレゼンには多少自信があったものだから、日本語でプレゼンしている姿と、英語でたどたどしくプレゼンをしている自分とのギャップに泣きそうなほど悔しい思いをした。教授の優しいfeedback ("Generally you seemed very comfortable and wellversed in your topic")が逆に傷をえぐった事もよく覚えている。



そして1年半が経った今、3時間のプレゼンをこなして"excellent"と言って貰える仕事が出来る。自分でも、「悪くないプレゼンだったな」と思える。もちろん反省点は沢山あったけれど。



成長は自分では見えづらいけれど、逃げずに努力を続けて良かったなと思う。
これからも、悔しさの合間にほんの一瞬訪れる嬉しさの為に、努力を続けたいなと思う。そしてそれを、自分の生徒に伝えたいなと思う。




4/10/2014

無題

あっという間に、前回投稿したのが12月になっていた。笑
2月くらいに、試しにTwitterを始めてみたら、そっちのが向いていたみたいで、そっちに心を奪われてしまった。笑
と言っても僕の知人・友人でも、僕がTwitterにいるとは知らない。Twitterを始めた理由は、単純にどこでも思いついた事をメモ出来て、かつどこからでも閲覧できるのがいいなと思ったからに過ぎない。だから、フォロワーもフォローもほぼゼロだし、TLなんて見てない。笑
僕はかなり移り気なので、ブログのように読者を想定して、筋の通った文章を書いて、推敲して、というよりも、Twitterのように次から次へとアイディアを乱発する方が向いているようだ。


まあそれはともかく、早いものであの泣きたかった2012年の出願から、2年経ってしまった。あんなに頑張ったiBTもexpireしやがった。
何もかも早い。早すぎる。もう修了だ。

というわけで、今回顧録を書いています。若干、またはかなり、思い出補正がかかっているかもしれませんが、2年間で悩んだことや思った事を書き上げています。
世界のどこかの誰かのためになりますよう。