12/15/2013

コンフォートゾーンと成長の話

今日はちょっと哲学チックな話。

前も書いたが、僕は結構ひねくれている。人の言う「当たり前」を当たり前に受け入れたくない傾向が強い。

ということで、今日はひねくれたコンフォートゾーンの話。


人は言う。「成長するためには、自分のコンフォートゾーンから出る必要がある」と。
賛成だ。異論はない。多分、僕はハワイで言葉の壁にぶつかって、研究に苦しめられて、大変成長していると思う。


けれど、だ。
僕は、この世にコンフォートゾーンから出続けたまま死んだ人間がいたのか、甚だ疑問である。多分そういう「コンフォートゾーン」論者も、結婚するとなれば自分が最も居心地の良い人を選ぶだろうし、一番やりたい仕事を選ぶと思う。なぜそこで、最も居心地の悪い人と結婚し、子供を10人くらい産んで財政難に苦しみ、しかも最もやりたくない仕事に就くというような選択に行き着かないのか。お宅の理論によれば、それが最も「成長出来る」人生ではないのか。

答えは簡単だ。みんな、生き辛い人生は嫌なのだ。恐らくいかなるコンフォートゾーン論者も、彼らが「快適に生きられる」という前提のもとで、「コンフォートゾーンから出ましょう」と言っている。もちろんこれは人として当然の選択だと思うのだが、だからこそコンフォートゾーン論者は己の限界を知らねばならないとも思う。つまり、「我々が人間である限り、コンフォートゾーンから出続ける人生は選べない」と。結局コンフォートゾーン理論は、マクロなコンフォートゾーンの中で、ミクロなコンフォートゾーンから出て喜んでいるに過ぎない。そして、誰もそのマクロなコンフォートゾーンについては検証しようとしない。ぼんやり誤魔化して、そのままにしておく。そこを検証すると、足下がゆらぐからだ。

改めて言うが、僕はコンフォートゾーンから出る価値を否定しない。大いに賛成だ。
でも、「みんな、コンフォートゾーンから出て俺みたいに成長しようぜ」とか自己啓発セミナーで語る人がいたら、「ではお宅に今の地位と財産を全て放り出して、今いるコンフォートゾーンから出る覚悟はお有りですか?」と問いたい。

同時に、コンフォートゾーンから出続ける人生は、宗教的な「苦行」とは異なるとも思う。「常に不快な人生を選ぶ」ことと、「禁欲主義」や「施しの生き方」は違っていて、前者の方が辛いと思う。そんなわけで、「常にコンフォートゾーンから出続ける人生」を選んだ人がどのような超人になるのかにも、興味がある。





11/16/2013

wannaとネイティブ

昔、facebookで、知り合いの日本人が「どうして日本人はgonnaとかwannaとかスラングを使いたがるのか!それは外国人が「〜しちゃった」とかを連発するようなもので、奇妙に違いない!」と少し怒り気味に(英語で)書いていた事があった。その人は日本でかなり一生懸命英語を勉強されている方なので、まぁ気持ちは分からないでもない。今日はその事について、「英語」概念を色々勉強してみて思うことを書こう。


まず、賢明な読者の方々はお気づきかと思うが、wannaやgonnaはスラングではない。音韻論的な言語現象で、want toを流ちょうに言うと(複数の言語現象の果てに)wannaになってしまう、その程度の事だ。だからまぁ、want toをwannaと発音出来る人は英語の発音に慣れ親しんだ人である事は多い。

ところが、実はwant toは常にwannaになるわけではない。下の例を見てみよう。

I wanna go shopping today.
Do you wanna go shopping today?
*Who do you wanna go shopping today?

上記三つの例文の内、初めの二つはwannaが成立するが、最後の一つは成立しない。実はwannaには但し書きがあって、単純に言えば「wantとtoの間に他の単語が入っていない時に限る」のだ。最後の文はもともとYou want who to go shopping today.という形で、wantとtoの間にwhoが入っている。従ってこれを疑問文にしたWho do you wanna go shopping today?も成立しないのだ。
このルールはもちろん高校まででは教えてくれないし、試験にも出ない。大学でも言語学を勉強しないと知ることは無いと思うし、言語学を勉強していないネイティブからこのルールを教えてもらう事もないだろう。だから、恐らく多くの日本人は「want toはいつでもwannaになる」と思い込んでいるのではないだろうか。
この例から見えてくるのは、言語現象の複雑さだ。一見単純に見えるwant toからwannaのような現象も、様々な言語現象と、様々な制約の果てに発せられているのである。ネイティブスピーカーはこうした現象と制約を誰にも教わらず完璧に使いこなせるわけだから、「ネイティブ」を目指すことがいかに勇猛果敢な挑戦かお分かり頂けると思う。


さて、ここで冒頭のコメントに戻ろう。
僕はその方の意見に、言語学的な観点からも、社会言語学的な観点からも半分は賛成だ。上で述べたように、聞きかじった程度の英語を使うことは言語学的なルールに違反する場合があるし、特定の言葉が文化規範に違反する場合もあるからだ(知らずに差別用語を使ってしまうなど)。間違いを恐れず言語を使うのは良いが、同時にそれが危険を孕む事も知っておかなければならない。


ところが、これが僕の言いたい事では無い。ここからが本題。

聞きかじった程度の英語が言語学的にも社会言語学的にもマークされうるのはその通りなのだが、果たしてそれは悪いことだろうか。
実は、この"markedness"を問題にすることが、すでに「ネイティブ」の罠に陥っているのである。「違反する」という行為は、違反する基準がなければ達成できるものではない。そしてその基準は「言語学的に」または「当該文化に」規定された英語なのである。世界中の全ての人間が、同一基準の英語と同一基準の文化を持っていればそれで構わないが、世界には様々な英語があって、それぞれの英語話者はそれぞれの文化背景を持ちながら会話している。何度も言っているが、英語という言語を世界規模で見た場合、それは既に誰に
所有されているものでもない。英語という言語は、Englishesとして土着化しているのだ。
となれば、人が人で有る限り「"want to"はいつでも"wanna"になって構わない」という考えが広まるのも時間の問題で、そこに新しい基準が出来る。アメリカ人やイギリス人が「そこでwannaなんて言わないよ」といくら目くじらを立てても、もうどうしようもない。かつて英語の所有者だった人々は、新しいバラエティーの英語を受け入れざるを得なくなる。誰の言葉だったか「西洋が作った植民地が、今度は西洋を植民地化しようとしている」のである。

もうこうなると訳が分からなくなってくる。「英語」とは何で、誰が誰の基準に合わせるべきなのか。英語学習者が学習の過程で使う英語は、「間違い」なのか、「バラエティー」なのか。「そこでwannaとは言わないよ」と教えるべきか「まぁ外国人だし仕方ないか」で済ませるか。今、多くの英語教育研究者が、このモラルハザードに直面している。


この記事には、結論も答えもない。一つの打開策は"Intercultural Communicative Competence"という概念で、それは別の機会に書ければ良いなと思っている。ただ、それは「英語教育者は何を教えるべきか」の答えではない。従って、この記事には答えが無い。僕は冒頭のコメントに半分賛成だが、半分反対だ。そこにどう折り合いをつけるか、それがこれからの課題。


11/11/2013

集中している時の話

「よし、自分に負けないで頑張ろう」と思うのは良いのだが、そう思いながら作業をしている時点でもう負けているという事に気がついた。
気がついたというより、再確認した。

本当に集中している時、人は、無心になるものだなと。


そんな当たり前の話。


10/27/2013

本物の話

「本物の話」と言っても、今まで嘘を言っていたという訳では無い。
ちょっと当たり前の考えがまとまったので、「本物」という概念について当たり前の事を当たり前に述べたいと思う、という話だ。


僕は結構ひねくれ者なので、one of themになりたくない傾向がかなり強い。というか、自分の目的の為なら進んでone of themにもthe oneにもなるが、「みんなやっている」という理由でone of themを選びたくはない。自分が何かを「好きになる理由」を他人に押しつけられたくないのだ。

もう一つ。人類学という分野を通り、さらに「英語」という概念を客観的に勉強している今、「本場」とか「本物」という概念に敏感に、かつひねくれて反応するようになった。「本場のカレー」とは何か?「本物の英語」とは何か?「ハワイらしい」とは何か?等々・・・。

この二つが合わさると、要するに観光地とか行きたくなくなる。笑 「名物」とか気にくわないし、「本場の~」とか銘打っている店とか行きたくない。行ってもその「名物」頼んでやらない。踊らされている感満載だし、「本物」とか「本場」とかって、本来当事者にとっては意識されないもののはずだと思うから。言い換えれば、あまりに当たり前すぎて、意識すらされずに行われる行為や提供される料理こそが、「本物」なんだと思う。それを外部の人間—あるいは時に当事者自身—が「本物です」と銘打ってしまうから「偽物」が増えることになる。コンテクストから切り離された本物は本物ではない、というより、移植された場所のコンテクストと絡まって新しい「本物」になる。「本物です」と銘打たれた所に「本物」を求めに行くことは、ある意味で「本物化される前の本物」を侮辱している事になる、と思う。

誤解しないでもらいたいが、そういうのがお目当ての人を、僕は否定しない。例えば商業化されたワイキキの町並みやフラダンスを「いかにもハワイらしい!」と感じる人は多いだろうし、それは現代のハワイとして「本物」である。だけどそれは「ハワイの全て」ではない。Waikikiとはハワイ語で「噴き出す水」(Wai= fresh water; kiki= sprout)という意味である。元々湿地帯だったワイキキは、アラワイ運河の建設により排水が試みられ、また他の砂浜から砂を運んでワイキキビーチの建設も行われた、いわば資本主義の象徴的な観光地である。ハワイ大学からワイキキまでの道のりも今は完全にアスファルトだが、その昔は水が流れており、ハワイアンたちはワイキキから(現在の)ハワイ大の方まで魚を追い込んでいたのだという。彼らにとっての「ワイキキ」と現代の「ワイキキ」はどちらも「本物」だろうが、意味合いが全然違うのだ。

どちらがより「本物」でどちらが「正しい」という話では無い。そういう事を言い始めるとケンカになるから絶対止めた方が良い。どっちも正しくてどっちも本物なのである(ただ、もう一度言うが僕は「本物です」と銘打たれたものは基本的に大嫌いだ。好きになる事もあるが、「本物です」という理由だけで好きになりはしない。)。ただ、「本物です」と銘打たれる前の本物は当事者にとって意識されざるもので、銘打たれた「本物」は「本物化される前の本物」とは違う場合がある、という事。「本物」とはコンテクストと切り離す事が出来ないので、超時代的に「これが本物です」と断定する事は出来ないのではないだろうか。銘打たれた「本物」も意識されない「本物」も、それぞれのコンテクストの中で理解されるべきで、後者は時代と共に変わっていくものなんだと思う。

10/24/2013

The Sky is the Limit :)

忙しい時は(それってほぼ毎日だが、多忙な時期は特に。)いつも真ん前か、地面を見ながら歩いている、気がする。顔を上げる余裕すらなくなっているようだ。笑

今日、久々に空を見上げると、相変わらず快晴のハワイの空が広がっていた。この気候に助けられている部分は大変大きい。感謝、感謝。

なんだか気分がスカッとしたので、ポスト。

10/20/2013

文系大学院の授業

今更だが、アメリカの文系大学院の授業について、知りたい人向けに少し書いておく。

日本と同様、アメリカの大学院は一つのcourseが15週間の授業で構成されている。
ご存知の通りアメリカの授業レベルは100から始まる番号で区別されていて、大学院だと600~の授業を取るのが普通だ。例えば、610 "English and Identity"とか、650"Technology and Education"とか、そんな感じ。さらにウチの場合、700~はセミナーで、600レベルよりドクターの生徒が多く、よりstudent centeredな授業が行われる。授業時間も600レベルが75分または170分なのに対して、700レベルは170分一択だ。
授業は一週間に1〜2回で、これは教授によってまちまち。要は75分×2回か、170分×1回か、ということ。

こうした授業を1セメスターに3つずつ取って4セメスターで修了というのが普通だが、4~5授業くらいずつとって2~3セメスターで修了するバケモノも結構いる。4~5授業くらいずつとった上に4セメスター以上勉強し続けるという人外の生物もいる。

日々の課題は、次回の授業までに1~3本の論文またはbook chapterを読むというのが主。論文の長さは10ページくらいの軽いヤツから、60ページくらいあるものまで様々。よって一週間に読む量は平均200ページ位。授業中はこの論文たちをもとに、講義+クラスディスカッションが行われる。


シラバスにはこんな感じでリーディングリストがくっついている


そのほかに生徒主導の課題が2~3回/semesterくらい与えられて、これは教授やcourse typeによって、リーディング課題を要約するプレゼン、自分の研究を発表するプレゼン、ディスカッションリーダー、軽めのペーパーなど様々。ネイティブが多いクラスでディスカッションリーダーをやる時は涙目。笑
あとは学期の最後にfinal projectが控えている、と。

当然プレゼン、ペーパー、ディスカッションリーダー、final projectなどは学部生みたく「一夜漬けでやりました!テヘペロ!」というテンションでは取り組めないので、その2週間~数ヶ月ほど前からさらに多くの論文を探し、読み、構想を練らなければならない。軽いノリで取り組むと、教授と複数の生徒から、良くてやんわり穴をつつかれ、悪いとかなり辛辣かつストレートに糾弾される、らしい(断っておくが僕が経験したわけではなく、聞いた話だ(笑))。
そしてこうしたプレゼンやペーパーなどは普通学期の中間と終盤にかぶることが多いため、この時期は数日朝まで勉強し、コーヒーとレッドブルに大変お世話になるわけだ。

あ、ちなみに。
全ての生徒が全ての論文を読むわけではないのは日本と同じで、全部読んだフリして授業に現れる人間も多数いる。しかし、読んだフリの仕方(笑)が分からないうちは絶対全部読んだ方が良い。ディスカッションで困った事になる。

さて、final gradeはA+からF(落第)までの評価で示されるが、普通に勉強していればFをもらう事はまずあり得ない。ていうかA-(マイナス)以上をもらうのが普通だ。昨日ネイティブの友人とも話していたが、「大学院ではB=Fと考えた方が良い」位だと思う。


最後に少しお金の話。
日本ではあまり意識しないだろうが、こっちでは(少なくとも僕は)「単位(credit)」というものをかなり考える。というのは、授業料はcreditごとの量り売り(笑)だからだ。ウチの大学で大体1credit=12万円くらい。普通大学院の授業は3creditsなので、一授業に36万円払ってる事になる。資本主義の象徴なわけだが、ハッキリ言ってこれはものすごいモチベーションになる。お金がない中で、絞りに絞った3授業を108万円払って受けるわけだから当然である。授業の質が悪ければ教授に直接feed backしまくるし、教授もすぐにそれを受け入れて授業スタイルを変更する。

資本主義のシステムの中で資本主義を勉強し、さらにそのシステムを巧みに利用して自分に最も利益があるように行動するとは皮肉なものだが、今はそれを考えない事にする。



10/18/2013

一息

ペーパーやらプレゼンやらミーティングやらのdead lineが3週間ほど続き、今やっと一息。
15週間ある授業のうち、学期の半ばにあたる7~8週目と、終盤13~15週目あたりは冗談じゃ無く、レッドブルが主食になるくらい忙しい。「金払って仕事してるようなもんだ」とはドクターにいる知人の段だが、言い得て妙である。

ちなみに一息ついたところで、別に面白いネタなどない。ネタがない事がネタになるくらい、ネタが無い。

英語教育という分野は、金・政治・イデオロギーと密接に結びついている。それも、グローバルに。そんなことを日々再確認しながら生きている。
この分野を勉強すればするほど、「では、教師は何を教えれば良いのか」というモラルハザードにぶち当たる。ただその答えはきっと座って考えて出るものではなくて、教壇に立って分かるものなんだろうと思う。だから、今のうちにたくさん鬱憤を溜めておきたい、と思う。教壇で生徒と自分に問いかけてみたいものを、たくさんたくさん溜めておきたい。


ハワイも雨期に差し掛かった。

9/11/2013

悔しさと。厳しさと。

今日、とある授業でプレゼンがあった。


僕はかなりネガティブに捉える方なので、プレゼンがある度に「わかりにくい英語だらけだった!」とか「もっと惹きつける話し方が出来れば!」とか「もっと練習しておけば!」とかいう後悔と自己嫌悪の嵐が巻き起こり(実際、そういうプレゼンはウケがいまいち)、もうその日一日はどうしようもないくらい落ち込む。自分に腹が立ってどうしようもなくなる。
"f**k"とか一人で言いまくるし、舌打ちしまくるし、眉間にしわ寄りっぱなしだし、多分大変親しみにくい人になっていると思う。不運な事に、後悔の衝動に駆られるとこれを無意識でやってしまうため、図書館だろうが、隣に人がいようが、舌打ちして"f**k"とか言っちゃう。多分すごくイカレた人に見えていると思う。

少しずつ「そこそこの」プレゼンが出来る頻度は上がっているものの、この傾向は去年からずっと続いている。不出来なプレゼンが多くて、やるせない気分になる。

けれど、そんな状況も、去年より耐えられるようにしてくれた二つの言葉がある。



一つは、この夏帰省したときに教授から聞いた一言。

—英語が95%理解できるようになるのはなんとかなっても、それを96%にするには、更に何倍もの努力がいるんだよね


「あぁ、そうか。やっぱり、躓いて良いんだ」と思わせてくれた何気ない言葉。躓いて、成長していないと感じる度、「そりゃそんなすぐには成長しないだろ」と自分に言い聞かせる事が出来るようになった。


もう一つは、日米通算4000本安打を達成したイチロー選手が、会見で言った言葉(Yahoo!JAPAN8月22日付、「日米通算4000本安打達成のイチローが会見(全文掲載)/一問一答」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130822-00000214-mlbjp-base)より引用)。

—プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手くいかなかったことなんですよね。その記憶が強く残るから、ストレスを抱えるわけですよね。これは、アマチュアで楽しく野球をやっていれば、いいことばっか残る。でも、楽しいだけだと思うんですよね。コレはどの世界も同じこと。皆さんも同じだと思うんですよね。そのストレスを抱えた中で、瞬間的に喜びが訪れる、そしてはかなく消えていく、見たいな。それが、プロの世界の醍醐味でもあると思うんですけど、もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、きっとないんだろうなあと思います


上手くいかないストレスを抱える中で、瞬間的に喜びが訪れる、そして、はかなく消えていく。
僕はもちろん研究者としてプロフェッショナルな訳では無いし、イチロー選手の気持ちが「分かる」などと言ったら大変厚かましく思えるが、それでも、すごく共感できる。「今の自分にぴったりの言葉だ」と思ってしまった(厚かましい)。
英語も、英語のプレゼンも—というより人が極めようとする何かは全て—たくさんの悔しさと、瞬間的な喜びの連続の果てに、達成されるものなんだと思う。

何かある度悔しくて悔しくて、穴が無くとも掘って埋まりたい気分だけれど、1%上の理解と、瞬間的な喜びのために、もう少し頑張ってみようと思う。


9/07/2013

覚悟

やるか
やらないか

やったなら
できるまでやれるか

そういう覚悟の繰り返しでのみ、「達成」は達成されるのだと思う。


8/18/2013

アロハワイ-第二章-

特にネタがあるわけでもないのだが、時間がある今のうちにブログでも更新しておこうと思った次第だ。

8月某日、日本が執拗な猛暑に見舞われている時、猛暑顔負けのアツアツ新婚カップルや、成田空港からアロハな格好全開な家族に紛れて、色気もヘチマもない大学院生が絶海の孤島に再・再上陸した。

およそ3ヶ月ぶりに見るオアフは、もう降り立った瞬間の雰囲気だけでぐうたらしちゃう程時間が緩やかで、人が温かかった。適当なチケットの切り方をするdispacherのおばちゃんにタクシーを手配して貰い、ハワイ訛りの英語を話すおっちゃんの運転で一路ハワイ大学まで。高速を走る車に時折降り注ぐ小雨と、「学生さん、チップなんていらねーよ」と言わんばかりの笑顔できっちりお釣りをくれる運転手が、ハワイを実感させてくれた。

その後友人の家に預けてあった荷物を受け取り、すぐに新居へと移動を開始(通常、アメリカの寮は夏前に退寮しなければならない。その後同じ場所に再入居する事も可能だが、僕はフェローシップに受かったので研究機関に住む事になった)。チェックインの際に「あなたの名前ありませんよ」なんて言われてアメリカらしさを実感しつつ、いざ新居へ入ってみるとなんと寮の最上階。目に飛び込んできたダイヤモンドヘッドとホノルル市街地は長旅の疲れをどこかにやってしまったし(いやその後がっつり寝たが)、吹き荒ぶハワイのトロピカル・ウィンドは思わず両手を広げて感じたくなるほど心地よい。が時々ドアが突然開いたりするほどの強風が吹き付けて困る。


この景色、年中無休。

学期が始まるまでおよそ1週間、今年は国際学会での発表も控えているし、フェローとして成果を出しておきたい所でもある。変に時間がある今は日本を恋しく思う気持ちが沸いてくるけれど、日々の出会いに感謝し、日本で力をくれた友人に感謝し、謙虚に、貪欲に、経験を増していきたいと思う。


そうそう、ハワイに入って久々に英語だけの生活に浸り、不思議な事に気がついた。
3ヶ月前よりも断然英語が出てくるのだ。恐らく、いや間違いなく、これは日本に帰り、人と出会い、活力を充実させた事が原因だと感じた。
3ヶ月前までの僕が異国で感じていたのは、「英語が話せなければ誰ともつながれない」という思いだった。そこに「英語教育を専門にしているからこそ英語で失敗は出来ない」という恐れが加わり、英語を「気楽に」は使えなくなっていた。
けれどこの3ヶ月で様々な再会を果たした僕は、「英語で失敗しても孤独にはならない。自分には故郷に仲間がいる。」と思えるようになった。つくづく言語学習の敵は「萎縮すること」だな、と感じたし、「失敗を恐れず話しましょう」なんて言われて出来ることではなくて、自分の性格はもちろん、経験、環境、モチベーションといった外的・内的環境に影響されるんだなと痛感した。教育を行う方がこういう事を知っておくと何かと有益だと思う。

8/03/2013

NOTES

「学費と奨学金」を更新しました。右下のNOTESからどうぞ。

4/01/2013

あとひとつき

あとひと月。

あとひと月で、ハワイ大学大学院生としての一年目が、終わる。



こっちに来てから3カ月くらいは、実は本当に辛かった。したためてはあるが公開していないだけで、たくさんの「辛さ」が「下書き」としてこのブログに存在している。

辛さについて多くは語るまいが、とにかく辛かった時、僕は飛行機を見ては「帰りてえ」と呟いていた。facebookに逃げたし、Yahoo!JAPANのニュースに逃げた(笑)。でも、中でもとりわけ、サークルの追い出しコンパでもらったメッセージブックを眺めていた。「この居心地の良い空間に戻りたい」と、思っていた。

12月位から英語に慣れ始め、1月半ばには日本語より先に英語が出てくる程になった。
友達も出来、授業にも慣れ、居場所が見つかり始めた。
英語が出来ない悔しさと、居場所がない辛さのうち、後者が解消され、メッセージブックを眺める頻度は減っていった。

今、ふと、およそ3カ月ぶりに、メッセージブックを手に取る。
後輩と同期が、

「いってらっしゃい!」
「尊敬してます!」
「行動的ですね!」
「いつも笑顔ですよね!」

と言っていた。


餞の美辞麗句であることは分かっている。
それでも、異国で、言葉が操れず--いや言葉のせいにして--、「自分らしさ」が発揮できずくすぶっている自分に、「こんな良いところがあるよ!」と、思い出させてくれた。

あぁ忘れていた。これが僕らしさだ、と。

そして、

僕はひとりではない、と。


この一年、動けなくて動けなくて、同級生の行動力や、facebookで見る友人知人のポストに自己嫌悪ばかりだった。自分の長所なんて忘れていた。自分は腑抜けで、日本に帰りたい気持ちはあれど、誰にも合わせる顔が無いと感じていた。

久々に開いたメッセージブックに、「これがお前らしさだぞ!頑張れ!」と、背中を押してもらった気がした。
いつか会う彼らに、「『らしさ』に磨きがかかりましたね!」と言ってもらえるようになりたい。翻ってそれが、外的環境に左右されない、自分の最高の「居場所」になると思う。

自分らしく。自分らしく。まだまだ。もっと上を。


結局、またサークルの面々に助けられた。ありがとう。

2/23/2013

ねいてぃぶ信仰のはなし

英語教育の世界では、"ELF"(English as a Lingua Franca)という考え方がある。定義は色々あるが、単純に言えば母語が異なる人同士が使う、「共通語としての英語」という事だ。国際会議や国際交流で使われるのはELFということ。



ELFの一例。櫻井よしこ×ダライラマ14世。7:10くらいから


また、Kachruというとっても偉い学者さんが提唱した、"inner/outer/expanding circle"という考えもある。これも単純に言えば、「inner circle=英語を母語とする国々」、「outer circle=英語がステータスとして認められ、広く英語が浸透している国々」、そして「expanding circle=英語が浸透していない国々」といった感じ。アメリカやカナダが第一群、シンガポールやインドが第二群、日本や韓国が第三群となる。ポイントは、人口の流動が加速する昨今、人々はこの3つのサークルを行き来し、それぞれの国で「それぞれの」英語を話して暮らしているという事だ。そこで家庭が出来、子どもは教育を受け、下手をすると途中で親の母国に帰ったりする。

要するにこうした概念が示すのは、世界では「英語の国際化」が起こっているという事だ。英語はインドヨーロッパ語族圏を離れ、世界中で"Englishes"として「土着化」している。Englishという言語も、native speaker of Englishという概念も、もはやinner circleのためだけのものではない。

多くの日本人は、巷に溢れる「これではネイティブに通じない」とか「ネイティブの発音」とか「ネイティブはこう考える」とか「ネイティブのように考えなければ英語はマスターできない」とかなんとかいう文句に弱い。学校でも、発音や文法や語用論はアメリカンスタンダードイングリッシュなるものに依拠している。



だが、あなたたちの言う「ねいてぃぶ」とは誰なのか。何を以て「ねいてぃぶ」なのか。それはいかにして計られて、なにを達成すればあなたは満足するのか。ていうか、そもそも何故日本人が「ねいてぃぶ」を目指す必要があるのか。
少し考えれば、この「ねいてぃぶ」が実体のない、イデオロギー的空想であると分かる。そして逆に言えば、実体のない空想でありながらイデオロギーとして日本人にしっかり根付いている。国際化の現状を考えれば、「目指すべきはELFではないか?」と気づくはずだが、それは世論とはなりえない。
これが何故か、という話はここでは置いておくが、まぁ、多くは「金の問題」と言えば事足りるだろう。

とにかく、ここで言いたいのは、「自分が英語を勉強する目的」を「はっきり」させた方が良い、という事だ。前のエントリーで書いたけれど、言語学習に果ては無い。目的が無ければ一生改善の余地があるのが言語だ。
僕はネイティブ(inner circle communityの人々)を目標として掲げること自体を否定しているわけではない。例えばイングリッシュ・ネイティブに「君は本当に日本人かい?完璧な英語だね!小さい頃は英語圏で過ごしていたんでしょう?」と言われる事は可能だと思う。大変困難な道だけど、頑張れば良いと思う。現に僕もそれを一つの目標として考えているわけで。
それに、「ジャパニーズイングリッシュ」というものが日本人にも外国人にも認知されていない以上(つまり日本がexpanding circleに居る以上)、「アメリカン/ブリティッシュ・スタンダード・イングリッシュ」なるものをきっかけにするのは当たり前だとも思う。
だが、英語学習の目的は「ネイティブ」だけではない。学習計画の基礎中の基礎だが、まず「ニーズ」をはっきりさせ、そこから「ゴール」を設定し、学習法に移る。
「あなた」の「ニーズ」は何なのか。「何故」英語を学ぶのか。旅行か、チャットか、ビジネスか、映画鑑賞か、研究か、恋人作りか?どの位、どの英語が使えれば「ゴール」なのか?そこに「ネイティブを目指す必要性」はあるのか?「あなた」の目指す「英語」は「どのタイプの英語」なのか?



英語は、一つではない。
あなたは、あなたの「学習目標」を定義できるだろうか。
それが無いと、イデオロギーとしての「ネイティブ」が目標設定される「仕組み」になっている。イデオロギーとはそうして再生産されるものだから。
そしてそうなった以上、一生英語に対して劣等感を抱く事になる。どのネイティブを目指そうが、「ネイティブ」とはその位難しい目標なのだから。