1/30/2011

支え合いながら生きるということ。

大学に入学した2008年の6月から、僕は塾講師のアルバイトを始めた。
僕が入ったときは完全ブラック企業で(笑)、僕はバイトを始めた後、模擬授業の機会すら与えられないまま、「中1だから大丈夫でしょ?」という安易な理由で集団の授業を持つことになった。しかも授業当日にそれを伝えられた。笑

右も左も分からなくて、毎日毎日授業準備で精一杯。
従って生徒指導などに手が回る訳もなく、半年が経つ頃には驚異の退塾不安率を誇るクラスに成長していた。ほぼ毎月生徒が入れ替わり、はじめ20人近くいた生徒は半分ほどになった。
生徒指導が行き届いていないクラスで、思春期を迎えた生徒たちは宿題など出すはずもなく(それでも大人しい子はまだ出してくれたが)、そういった子は当然のように遅刻。当然成績など伸びるはずもなく、僕が担当していた英語の授業以外の担当者は悉くリタイアしていった。


「自分は頑張っているのに!」と思う反面「どうしたら心を開いてくれるんだ!!」と悩みまくって、
室長に相談して、同期に相談して、何度もやめようと思った。何度もやめさせて下さいと言った。

「あのクラスだけは持ちたくない。あのクラス以外なら持ちますから。」
正直に言ったこともあった。


しかしその願いが聞き入れられるなど、マイケルジャクソンが生き返ることの次に無謀な事だったらしく
他にも入れ替わり立ち替わりクラスを持ったが、(これは不思議な事でもあるけど)そのクラスだけは僕がやめるまで見ることになった。


僕がやめたのは2010年の6月。丸々2年間もち、受験生となった彼らが「いよいよ夏期講習だぞ!」という直前に諸般の事情により引退した。塾屋は「自分が大学生のアルバイトである」と公言してはいけないので、彼らにとっては意味不明な時期での意味不明な引退だったに違いない。さすがに2年も経てば僕にも若干の余裕が出てきて、彼らも少しずつ大人になってはいたが、2年前からいる生徒はどこか僕のことをなめているようで(それにしてもよく2年間ついてきたな、とも思ったが)、心配であり不安であり、何より残念だった。
向いてないんだなと思った。


そして僕がやめてから8ヶ月が経った今日、僕の後釜としてその子たちを持った同期から連絡が入った。






「来月はいよいよ私立高校の入試です。
そこで、あなたに激励のコメントが欲しいと2名の生徒から指名が入りました。」







そこには、今は7人となってしまったクラスで、一番手を焼いた生徒の名前が書かれていた。
生意気で、でも勉強はそれなりに出来たから逆に厄介で、でもきちんと夢を持って、中学生らしく人生を模索しながら、キラキラと輝いていた、懐かしい女の子の名前だった。
携帯の画面を見て、素直に涙をためてみた。本当に本当に嬉しいと思った。


僕は、決して自分のことを素晴らしいとは思わない。
誰かに影響を与えられる人間だとは思わないし思えない。

でも、教育は素晴らしい。
本気でそう思った。

そして、こんな自分でも、誰かに影響を与えられていたんだと嬉しくなって、
もう少しこの調子で生きてもいいのかもしれない、と、自分を認めてあげたくなった瞬間。

スタバにて書き留める。チーズケーキが美味しい午後。

1/29/2011

雑記

本日はフィールドワークに行き、
その後英文学のレポートを一本仕上げて来ました・・・。

人類学はフィールドワークが基本なのは以前書いたとおりですが、
本当にありとあらゆる場所へ行きます。繋がりから繋がりへ。これが楽しいんですけどね。

今日のフィールドワークは、「外国人の子どもたちが何に困っているか」を、
実際に子どもたちをサポートしている人たちで意見交換する会への参加でした。
実際に参加しつつ、観察もして、家に帰ってノートにおこす。
楽しいですが、まぁぶっちゃけ疲れる。笑 ノートとか2、3時間は普通にかかるし。
僕が卒業論文で研究の対象とするのはニューカマーの外国人たちですが、それを支援する人たちにも「支援する人たち文化」なるものは絶対あるんですね。
例えば、僕の今までの観察からそういった方には女性が多いような気がしますが、これも一つの文化です。
今日参加した人も、9割は女性でした。
ではなぜ女性が多いのか、それはこの地方だけなのか、その背景には何があるのか・・・と考え始めたら、ここをフィールドにして研究をします。僕はやりませんが、誰かやったら面白いと思います←



話変わりますけど、ふと、世界一周したいなって思いました。笑
100万円くらいあれば行けるみたいなんだけど、なんか、行く先々で仕事とかしながら40万円くらいで行けないかな。笑
大学で知り合った世界中に散らばる友人を頼ればなんか出来そうだな。
ちょっとガチで考えようと思います。
行くとしたら2012年4月から大学院に行く9月までかな。何とかなるんじゃねーかな。
誰か情報持ってたら下さい。笑

続・表面上友人

この世でたった一人。
正確には二人。
心から嫌う人がいる。
でもとても好きな人が居る。





あなたに幸あれ。



出来れば私の知らない所で幸あれ。




私はあなたと、これからも表面上友人を続けます。




でも二度と目の前に現れないで下さい。




でも背後には居て下さい。



これからも宜しく。

1/25/2011

雑記

結構前に書いたIELTSの対策本が届いたらしいので取りに行きました。
今度はちゃんと購入しましたよ。明日からTIME読んだり対策本を進めたり、後は卒論構想発表会なる儀式のために準備をせねば。



インドは、2月の10日~21日まで行ってきます。
2月9~10日は研究室の行事により県外で飲んでいます。笑
10日に帰ってきたら、その足で成田へ。
ちなみに帰ってきた翌日が卒論構想発表会です。
タレントか。

卒論構想発表会は要するに「これから一年こういう研究をしていくぜ!よろしくぅ!」という意気込みを発表する場ですね。その段階で問題に対する結論だの何だの大したこと言えるわけが無いので、別名卒論妄想発表会と言われています。でも後輩から院生、教授までいらっしゃるので雰囲気はピリピリして怖いのです。
しかし、ガンガー(ガンジス川)の偉大なる流れに抱かれる予定の私には、その頃には最早怖いものなど無い予定なのです。

「言葉が通じればどうにかなるっしょ!」的な。ね。笑

1/24/2011

雨降って地割れ

先日、文学部の教務係に、この前書いたストラテジーを実行すべく履修放棄の手続きに行った。

自分「すみません、履修放棄の手続きをしたいんですけど。」
教務「あ、そうですか。はい。」
(気まずい沈黙)
教務「え?」
自分「え?」
教務「いや、何も来てませんけど。」
自分「え?」
教務「あぁ、履修放棄は、







最初に授業の担当教授に言うんですよ。」









・・・まじすか!!!!!
あの教授が嫌で履修放棄したのに!!!!!!結局行くのかよ!!!!!!!!



しょーがねーなー。そういえばもう一つ聞きたいことが。
自分「わかりました。あの、ところでGPAについてお伺いしたいのですけど。」
教務「そうですか。」
自分「あの、GPAって、うちの大学ではどういう計算方法なんでしょうか。履修放棄は点数外というのは知っているのですけど。」
教務「あー。うちの大学、










そのGP?GPA・・・でしたっけ?GPA?出してないんですよ。」







え?
ていうかキーワードすら曖昧かよ。



皆さん。戦略は前提が大事です。しっかりと確認しましょう←

もう速攻MITに留学中の先輩に連絡。心臓バクバク半泣きの状態でfacebookに感謝しながら連絡。その先輩から仕入れた情報だったので。
で、さっき返信が来た。
「あー、それね。学部によるんだわ。うちの学部は出してくれたけど。」





そ・・・・そういうことか!くそぅ、してやられたぜ。誰も悪くはなかったのだ!





そして「UCLAの求めるGPAに足りないかもしれません。。。」と泣き言を言った私に、先輩は言う。
1つぐらい条件足りなくても、まず出してみればいい。
(中略)準備している時はすごく大きな挑戦だと思っていたけど、いざここに来て考えてみると、加えてけっこう運にも左右されるなあって思う。もちろん運を引くためにやらねばならんことはたくさんあるのだが。





・・・本当に、いい先輩に巡り会えたと思った瞬間。






ここからはガラッとテンションが変わりますがね。
「念ずれば花開く」って言葉あるじゃないですか。坂村真民さんのね。
この言葉は既に
「念ずれば、努力する。
努力すれば、応援してくれる人がいる。
念じ、努力し、応援があって、夢は叶う。」
という意味があるようですが、
そうと知らなかった私に衝撃を与えた言葉は、うちの高校の野球部のTシャツに刻まれていた言葉。



「念ずれば、来る
努めれば、花開く」



でした。今でもオリジナル版よりこっちのがしっくり来ます。笑
意味は同じなのですが、でもそういうものだと思う。
強い思いのある人は、その思い故に努力する。
強い思いのある人を見た人は、手を差し伸べたくなる。
努力し、応援され、ツテが広がり、コネが出来る。

知らず知らずのうちに人脈が広がり
チャンスが増え
実力がついていく。


思いが単純な人ほど、強かったりする。と思う。
夢が叶うまでは、めげずにいたいと思う。

1/23/2011

感動と擬音語の関係性についての私的考察

言葉に感動するとき





ってありますか?ありますよね?無ければ以下の文章を読むよりもドラえもんを読んでいた方が有益です。




ボロボロ涙をこぼして感動というわけではなく、
また「雷に打たれたような」衝撃をうけるわけではなく、

素敵な詩や小説を読んで、
今まで自分が悩んでいたことに対する解決策が書かれていた時、
或いは、自分でも「悩み」と気付かなかったもやもやの「何か」が、詩の中で「悩み」として完成されて、更にその解決策までもそこに書かれていた時。
「あー。こういうことだったのねー。」って、空を見上げてぽかーんとしたくなる瞬間。
まさに言葉が五臓六腑に染み渡る瞬間。
感動するんですよね。
日本語では五臓六腑に染み渡るとか、「腑に落ちる」と言いますよね。





ところでね。腑に落ちる瞬間って、




腑に落ちるんですから、




音がすると思うんです。笑







どんな音がするんだろう、と思うとき、僕はいつも「ぽとっ」に行き着きます。

「ぴちょっ」はちょっと撥ねすぎ。
「ぼたっ」だと重すぎるでしょ。
「どさっ」て無造作に置かれても困る。
「ぼとっ」だと何か汚い感じ。笑
「ぐちゃっ」は感動が潰れちゃって台無し。
「どんっ」小西。
「びしゃっ」はさ、雨の日でバスに泥が撥ねられた瞬間でしょう。強すぎる。
「ぱちゃっ」は落ちるっていうより、水たまりを踏んだらする音。
「ふわっ」はソフトランディングしてるよね。腑に落ちる瞬間は心が打ち震えるから違うんだよな。




心に、静かな、でも確かな衝撃を与えて、それでいて優しい音。
それは、少し粘着性のある液体が、空のコップに落ちる音。
落ちた後、表面張力できゅっと丸くなるような液体が落ちる音。


ぽとっ




で、




ふっ


と安心する。



で、




じわっ




と染みこむ。






感動だけでなく、腑に落ちる瞬間はいつでも「ぽとっ」って音がしてる気がする。



と、たまには文学部らしいことを書いてみるのだ。

1/22/2011

独白と書いてモノローグ。

まー誰しも気持ちには波があったりしますが。
ここ1週間は非常に駄目。
こうなるともう駄目なんだな。

自分を置いてけぼりにして日常が回っているような感覚。
日常を、自分だけが外側から見ているような感覚。
交わされる言葉が表面的だと感じて、感動さえも長く続かない。
泣いたり笑ったり、とにかく心の底から満足したいと思うけど、とにかく全てが表面的だと感じる。
そう感じないのはネガティブな感情だけ。心の底からネガティブになる。
誰かに話したいけど、誰にも話したくない。
話してもどうにもならないと分かってるし、話す自分が嫌いだから。
そしてまた表面で言葉を交わして、別れる。

そんな感じ。
中二病か。笑










晴れが似合う人になりたい。晴れを纏って歩きたい。むしろ服着て歩く晴れになりたい。






晴れろ。自分。














――雨の日には雨の中を
風の日には風の中を








みつをさん。まだそこには行けてないようです。

1/20/2011

帰宅途中に思った事。

なんと。
経営破綻した日航が、ついに「鶴丸」のロゴを復活させるそうですね!
鶴丸の時代の人間ではないですが、一種の「伝統」ですから。
「伝統」という言葉にはsomehow惹かれてしまいます。ソースはこちら





ところで。鳥と言えばね。
鳥インフルエンザがまた流行っているそうです。お隣韓国や北朝鮮でも流行っているそうですし、ついに福島県でも鳥インフルが発見されたそうです。口蹄疫の問題と良い、動物たちもパンデミック対策しなければいけません。犬に服が売られている時代ですから、鳥用マスクや鳥用消毒用アルコール、鳥用うがい薬も発売されるかもしれません。「鳥が鵜飼い」とはこれいかに。ソースはこちら

























日航が鳥インフルエンザにかからないと良いなぁ。

1/19/2011

話が飛ぶ。いや飛ばしたのは私。

久々の投稿。テスト勉強やら、ちょっと諸々疲れました。

今週はテストウィーク。そんな昨日火曜日の英語学概論、集中講義で欠席した一回を除いて全て出席&小テストは全て満点だったのですが、

テスト前日に切ることを決意しました。笑


アメリカの大学院に応募する場合、絶対必要になるのは
・英語の点数
・教授からの推薦状(3人分くらい)
・エッセイ
・大学時代の成績(GPA)
・大学時代の研究成果(レポートとか。)
って感じです。GPAは、4段階評価なら上から順に4points, 3points...という感じで点数がついていって、平均点が出されます。しかしうちの大学の場合、履修放棄を選んだ場合点数表に載らない(減点も加点もされない)ので、良い成績が取れないと判断したらその場で切って来年他の授業をとるというのもストラテジーの一つになります。今回の英語学概論はちょっと鬼畜すぎたので、水曜日以降のテスト勉強のために削りました。

さて今一番困っているのは推薦状・・・。自分の担当教授からは書いてもらうとして、出来れば応用言語学に詳しい教授に書いてもらいたいのだが・・・いかんせんうちは応用言語を専門にやってる人がいない・・・。言語学専修はあるけどチョムスキー派の古典的言語学なのだ。
まぁ、それはツテからツテへ、なんとか見つけてみよう。



それにしても今日は疲れた。
諸々でイライラしている所に後輩が追い打ちかけた。笑
礼儀を知らない人は好かない。

好かないけど、人を好かないと思ったときはシャドー効果を思い出して自省する。
シャドー効果ってどこかで聞いたことあると思ったんだけど、ネットでは出てこないのね。得意の自作かしらん。笑
要するに、ユングが提唱した「シャドウ」概念を応用したもの、だった気がします。人は意識の上で「自分はこうだ」というイメージを作ると、それに対立するであろう「自分のイメージ」を無意識下に葬り去ろうとする、或いは、イメージを形成する過程で「不要である」と感じたり「持っているべきではない」と判断したイメージを葬り去ろうとする、そうです。または過去に何らかの精神的苦痛を受けた結果、そのイメージを抑圧した自分が出来上がるとか、結構人によって解釈がまちまちだった気がしますが、要するにシャドウは自分と対立したイメージということですね。当然自分はそのイメージを持つ人を嫌います(抑圧しきれなかったシャドウが人に投影されるという解釈もあり)。
ユングが言っているのは、このシャドウは受け入れがたいものだけど、シャドウを受け入れて、或いはシャドウの視点から物事が見られたら、人は成長するのではないか?ということです。

で、確かシャドー効果って言うのはこれの応用で、「自分が嫌いな人の性格は自分も持っている」という効果(というより法則?)だった筈です。よって、僕はいつも人の嫌いな部分を見ると、「あいつのあの性格は嫌いだけど、あの性格も間違いなく自分は持っているのだ。じゃああの部分が表に出ないように気を付けよう。」と考えてみます。

誰のことも嫌いにならないといいなぁ。シャドウを感じなくなればなるほど、自分の性格は豊かになるんだものね。




話、飛びましたね。K点は超えたでしょう。目指せオリンピック。ばびゅーん。

1/15/2011

IELTS報告

IELTSの書類を今日送付してきました。

IELTSの場合、受験申込日を含めて4日以内に受験料(24,675円)を支払い、同7日以内にIELTS事務局に書類を送付した時点で受験受付が完了します。
僕の場合11日に申し込んで14日(ギリギリじゃねーか。)に振り込み。今日15日に書類送付したけどやべーな明日まで休日だから万が一があるなってことで速達でお願いしました。しかしJapanese Otchokochoi文化を濃厚に受け継ぐ私は、このブログを書くまで10日に申し込んだのだと勘違いしていたのです。でもまぁあれだ。マーフィーの法則ってヤツだね。違うか。

1/13/2011

教授との面談。

昨日のことになりますけど、教授に大学院の事を相談しました。
学部と分野が変わってしまうので良心的に切り出せずにいたのですが、思い切って。。。


まぁ、分かってはいましたが、快くOKされました。笑
教授自身もアメリカでMAとPh.Dとっているから、抵抗はなかったのだろうな。まさか「学部時代と分野が違うだって!?私が今まで育ててやった恩を仇で返す気か!御用だ御用だ!」などと騒ぎたてはすまい。

今までは2012年の3月に卒業して9月に渡米しようと思っていたけど、教授の「日本において学歴に「穴」が出来るのは好ましくないかもしれない」とのアドバイスにより、一旦2012年4月から文化人類学の大学院に進んで、半年経ったら2年間休学してMA取りに行くという方向になるかもしれん。
そうすれば帰ってきてから「学生」の身分で就活出来るし、取ろうと思えば日本でも修士号が取れる(文化人類学だけど。)とのこと。戦略ってすごいなと思った。

ついでに卒論英語指令のオプション付き。上等だぜ。どうせ向こうに送るわけだし。


さて。来週はテストラッシュだ。

1/11/2011

卒論研究計画書

の下書きを提出しました。来週はフィールドワークの実習報告書の発表だ。

インドは2月の半ばに行こうと思っていますー。本当なら1ヶ月くらい放浪したいのですが、2,3月は諸々の事情で10日位が精いっぱい・・・。4月以降はあまり授業もないし、スコア取って早めにどっか放浪したいな。笑



さてさて、今日我が文化人類学研究室に、「来年どこの研究室に行こうか迷っているんです!」というかわゆい1年生が見学に来ました。文化人類学専修は、社会学や宗教学と迷う人が多いのですが、やはりその子たちも迷っているようでした。僕は数学苦手だったし、もともと人と話すのが好きだったから文化人類学で迷いはなかったのですけどね。今日はそんな堅苦しいお話。


基本的に「社会科学」と呼ばれる社会学や行動科学は、「人文科学」と呼ばれる文化人類学などと仲が悪いです。笑
にも関わらずやっていることは似ているので、社会学と文化人類学で迷う人が出るわけですよね。
この二つを上手く定義するのは難しいし、研究の方法論によっては「どちらともとれる」場合もあります。当たり前ですけどやってることが似てるなら、近接領域ですからね。それでも両領域を分断して考えがちなのは、日本人の特質でしょうかね。中根千枝さん流にいえば「ウチとソト」の関係でしょうか。

話が逸れましたが、本日うちの准教授は二つの分野の違いについて、「大きな枠組みについて何か知りたければ社会学。もっと小さな視点で、人々が実際に何をしているのか研究したければ文化人類学」と説明していらっしゃいました。それも一つの見方にすぎませんが、確かに文化人類学は「観察と記述」を重視し、社会学・行動科学は「理由」を重視するような気がします。

たとえば「高度経済成長期前後の中国農村社会の変化」というテーマを取り上げた時、文化人類学者は高度経済成長期前後の期間にわたって中国の農村社会に住み、現地の人々のコミュニティに入り込んで観察を続けることでその変化を浮き彫りにしようとします。あくまで観察を重ねることで実態を見ようとするのです。これに対して行動科学や社会学は、例えば中国政府が公表している農村部の人口変化や物価の変動といった統計情報を整理/分析することでその理由を探ろうとする、或いは経済成長と離村に関する汎用性の高い理論の構築を目指します。そして統計はサンプル数がものを言うので、社会学や行動科学は結果としてアンケート調査などを行う傾向にあり、「人々の実際」を観たい文化人類学はそれを嫌いがちです。

どちらの視点も社会の実態を描くのに必要なものですし、もちろん文化人類学者が数字に興味がなく、社会学者が観察に興味がないというのも大きな(そしてありがちな)誤解です。文化人類学者だって統計情報扱うし、社会学者だってフィールドワークをします。大まかな傾向としてこうである、或いは重きを置く視点が上記のように違う、という所でしょうか。


・・・最後に、以上の分析はあくまで主観であることを付け加えて、逃げ道を作っておきます。笑 でも嘘は言ってないと思います。


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一応「アメリカ大学院留学への発展途上記録」と銘打ってある以上、何か留学関連の報告をせねば。笑
今日3月のIELTSの申し込みをしましたー。2万7千円ナリー。4日以内に振り込めというという縛りは、なんか精神的に辛いよね。報告終わり。笑

1/09/2011

ある一冊の本から~国際交流について思うこと~

今、清水睦美さんの本を読んでいます。

清水睦美
2006, 『ニューカマーの子どもたち―学校と家族の間の日常世界―』 東京:勁草書房

卒論のためにも将来のためにも必要なので。
まだ全部読み切ってはいないのでブックレポートは別の機会にしたいと思いますが、今日は本書を読んでいて思いついたことを書きます。

本書は1980年代以降国際結婚や出稼ぎなどの理由で来日移住した、いわゆる「ニューカマー」と総称される外国人のうち、小中学校に通う子どもたちを対象にした研究書です。

さて、本書には書かれていませんが、文部科学省が毎年公表している「日本語指導が必要な外国人児童生徒の受入れ状況等に関する調査」によれば、平成20年9月1日現在で文部科学省が定める「日本語指導が必要な外国人児童生徒」の数は28,575人で、平成14年(18,734人)から増加の一途を辿っています(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/07/__icsFiles/afieldfile/2009/07/03/1279262_1_1.pdf)。

  本書は第一章で、そうしたニューカマーの子どもたちが自文化と日本文化との違いに戸惑いながらどのように日常世界を営むかを、筆者のフィールドワーク体験を基に描いています。
  著者がフィールドワークを行った2000年頃から現在まで、日本の学校の外国籍児童生徒の受け入れ態勢は、簡単に言ってしまえば「特別扱いしないことが望ましいが、言語の問題もあってそれは難しいし、その辺は配慮してあげて」という感じです。
  そうした曖昧な状況なので、結果的に「配慮」(文科省の言葉を借りれば「特段の配慮」)は日本語指導に不慣れな先生方が四苦八苦して行う、誰にとっても負担の多いネガティブなものとなります(もちろん文科省もこの事態を放置しているわけではありませんが、実態は今も変わっていません)。

  外国人児童生徒に対するサポートも十分問題ですが、本書で著者が焦点を当てているのは別の問題です。それは先生方が四苦八苦して行った「配慮」の結果「学校生活を問題なく行える」と判断された子どもたちは、途端に「特別扱いされない」生徒になることです(著者はこの「問題なく行える」状態を「やれている」状態と表現しています)。著者が問題のひとつとして提起しているのは、日本の先生方はこの「やれている」状態を、往々にして「日本語による学校生活に支障がないか否か」のみで判断してしまうことにあるとし、これを教師の「状況理解のスキップ」と称しています。
  つまり、生活言語が流暢であるからといって「勉強についていける」とは限らないわけですし(そんなこと言ったら日本人はみんな成績が同じになってしまう。笑)、生徒が先生の指示に反応しているのは、周りの生徒の反応に便乗している可能性も高いわけです。そうした外国籍児童特有の性格を見逃してはいけないということです。

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  さて、著者の問題提起とそれに対する解決はいずれ僕が書くであろうブックレポートにお任せするとして(笑)、ここからはこの問題から僕が考えたこと。
上に挙げた「特別扱いしないのが原則だが、特段の配慮も必要」という考え方、一見すると平等で当たり前のように思われます。日本人も外国人もみんな同じ人間だからーってね。
しかしそれでは、異文化で育った子どもを理解したことにはならないのです。彼らを「特別扱いしないこと」は彼らにとって「良い教育」たりえない。

理解とは何か。

以前書いた鷲田清一さんの言葉に尽きるのではないでしょうか。
「他人を理解するとは、他人は他人と認めることだ」

外国人は、どこまで行っても外国人なのです。日本人はいつまでも日本人なのです。
これは言い過ぎかもしれませんが、外国籍児童生徒に対する考えは「特段の配慮が原則で、特別扱いしない事は稀である」位で良い気がします。

ただし重要なのは、
「違うから、どうわかり合うか」
なんです。

  「彼らは彼ら。仕方ないから放っておこう」ではなく、「彼らにはこういう特徴があって、日本文化にはこういう特徴がある。ではどうやってわかり合うのか」を考える方向に。その方法を考えるのは文化人類学者(に限らず多くの分野)の大切な役目であり、また学校の先生方にもどうにかしてそうした研究の蓄積を共有して頂けたらと思います。
  僕は大学で国際交流サークルに入っていますが、よく「国際交流という言葉は嫌い!」という言葉をメンバーから聞きます。要するに「友達になるのに『外国』も『日本』も関係無いんだ!」という事ですが、僕は絶対違うと思っています。
  「国際交流」は確かに存在するし、むしろ国際交流の楽しみはそうした「文化の違い」を乗り越えた感情の共有にあると思っています。一つ一つの国が固有の文化を持っているのに、それを無視して「人間皆平等」とは言えないのではないでしょうか。



「違うから、どうわかり合うか」

この視点は、大学に入学してから僕の「国際交流」の基盤となっているのです。







1/08/2011

雑記

先日のブログに書いたIELTSの対策本が丸善に届いたらしいので取りに行った。
注文時は中身の確認ができなかったので、届いた商品を確認してみると・・・・なんとband score5.0-6.0を目標にする人用だった。


即返品。笑




ということで別のものを注文してこの日は退散。届くのは10日くらい後らしいけど、テストもあるし、その間はTIMEでも読み漁っていよう。National Geographicも読みたいなー。
2月は卒論構想発表会もあるし、少し忙しいかな。

1/07/2011

叱咤

僕に人生で初めて「この人のように生きたい」と思わせたのは、一人の女性。
同い年だけど、遠く及ばない存在。目標であり、憧れであり、良き友達(と信じたい。笑)。
いつか、色々な物事を議論できる間柄になりたい。

それまで「英語の上達が目標」だった僕に
「それは手段でしかない」と、
それまで「留学が目標」だった僕に
「そんな目標はちっぽけなものだ」と、
隠しても隠しきれない程の気合いと類い希なる行動力で教えてくれた人。
当然の如く留学してしまったが、彼女にとって留学もまた目標ではなく手段なのだと思う。
その人の生き方を見て、より広い視野で自分が人生かけてやりたい事を探せるようになった気がする。その人は全く影響与えてるつもりはなかった筈だけど、まぁ人に影響を与えるとはそんなものだろう。

いつか、「へぇ、やるじゃん」と一言言ってもらいたい人です。笑


勉強に疲れたとき、英語を話すのが億劫になるとき、考えてばかりで行動出来ないとき、その人の生き方を思い出して元気を出して、「動かなきゃ!!」と叱咤します。
実は、今の図書館の勉強スペースはその人がよく使っていたところでもあるのです。笑

do what you think RIGHT.
DO what you think right.
僕の座右の銘の一つにしたい言葉。作ったのは自分。笑 でも彼女を見て改めて胸に刻んだ言葉でもある。

さぁ3月はすぐそこだ。


1/05/2011

テスト投稿

新しいパソコンが今日届いたのでテスト投稿。asusのUL20FT(シルバー)。
もともと図書館で勉強している時に、調べ物とかレポート書いたりするために購入したものだったので、12.1インチワイドと小さめ。処理速度も今までのLaVieと比べると劣りますが、まぁ主に文書作成だし問題ない。メモリ拡張すればましになるだろ。目も少し疲れるけど、まーその辺は慣れだな。
国産にこのコストパフォーマンスは真似できまい。ふふふ。

これで勉強の能率があがりそうだ。思い切って買ってよかった気がする^^

もりみー。

先日、森見登美彦氏の『太陽の塔』を読みました。森美作品は結構好きで、結構読んでたりするのですが、これまだだったなーってことで。
氏のダメ大学生の描きっぷりが好きです。笑  でも『有頂天家族』を読んだときは泣きましたねー。


まーストーリーは読んでのお楽しみとして、本の中にちょいと興味深い発想がありまして。
主人公の友人・高藪が、作中でこんな事を言います。以下引用。


  「高い場所に置かれた物体は位置エネルギーを獲得する」
  高藪が唐突に言った。
  「それが落下するときには、位置エネルギーは運動エネルギーに変換される」
  (中略) 
  「もし精神が位置エネルギーを持つとしたら、落下するときにはエネルギーを放出するはずだ。それを利用できればなあ」


ストーリーには全く関係無い箇所だし、もしかしたら森見氏自身も特に思い入れがなかった台詞なのかもしれません。

でも、素敵な発想だなーと思うのです。自分が落ち込むその瞬間、実はエネルギーを放出している。エネルギー保存の法則が精神にも成り立つとしたら、自分の持つ精神エネルギーはハイテンションの時もローテンションの時も一定なわけです。むしろローテンションの時が一番エネルギーの放出量が大きい。


・・・一体このエネルギーはなんなのだろうか。空想めいた考えだけど、何らかの答えが出たら、自分が落ち込んだときの支えになりそうだなー。そう思って頭の片隅で最近考えています。

1/04/2011

新年

あけましておめでとうございます^^

新幹線使えばすぐなんですが、バスだとなんだかんだで12時間はかかる・・・。疲れます。
そして家に帰ると甥っ子の脅威・・・。まー自分自身が末っ子だったので、弟感覚で遊んであげるとこれはこれで楽しいですが。やっぱり疲れますわな。親ってすごいわ。

昨日は帰ってきてその足でヨドバシカメラの初売りに。
13%ポイント還元ってすごいな!とか思いながらパソコンを購入。笑←
いや、兄貴がデスクトップを安く譲ってくれるって言うから、思い切ってサブノート買おうかなーと思って。はーまたお金が飛ぶ。しかしパソコンを買えるお金があるなんてすばらしいことだ。44円で生活をしていた時期をふと懐かしく思ったりして。


今日はまだ学校始まってないし、ぶらぶら買い物をしました。丸善でIELTSの対策本を購入。さすがに洋書は高い・・・。けれどこんな時、以前先輩に頂いた言葉を思い出すのです。
自分:「先輩、勉強ってお金がかかりますね・・・。」
先輩:「はは。勉強にこそお金がかかるんだよ。」

さらっと言われた一言が、結構響いたりもするんですわな。