10/27/2013

本物の話

「本物の話」と言っても、今まで嘘を言っていたという訳では無い。
ちょっと当たり前の考えがまとまったので、「本物」という概念について当たり前の事を当たり前に述べたいと思う、という話だ。


僕は結構ひねくれ者なので、one of themになりたくない傾向がかなり強い。というか、自分の目的の為なら進んでone of themにもthe oneにもなるが、「みんなやっている」という理由でone of themを選びたくはない。自分が何かを「好きになる理由」を他人に押しつけられたくないのだ。

もう一つ。人類学という分野を通り、さらに「英語」という概念を客観的に勉強している今、「本場」とか「本物」という概念に敏感に、かつひねくれて反応するようになった。「本場のカレー」とは何か?「本物の英語」とは何か?「ハワイらしい」とは何か?等々・・・。

この二つが合わさると、要するに観光地とか行きたくなくなる。笑 「名物」とか気にくわないし、「本場の~」とか銘打っている店とか行きたくない。行ってもその「名物」頼んでやらない。踊らされている感満載だし、「本物」とか「本場」とかって、本来当事者にとっては意識されないもののはずだと思うから。言い換えれば、あまりに当たり前すぎて、意識すらされずに行われる行為や提供される料理こそが、「本物」なんだと思う。それを外部の人間—あるいは時に当事者自身—が「本物です」と銘打ってしまうから「偽物」が増えることになる。コンテクストから切り離された本物は本物ではない、というより、移植された場所のコンテクストと絡まって新しい「本物」になる。「本物です」と銘打たれた所に「本物」を求めに行くことは、ある意味で「本物化される前の本物」を侮辱している事になる、と思う。

誤解しないでもらいたいが、そういうのがお目当ての人を、僕は否定しない。例えば商業化されたワイキキの町並みやフラダンスを「いかにもハワイらしい!」と感じる人は多いだろうし、それは現代のハワイとして「本物」である。だけどそれは「ハワイの全て」ではない。Waikikiとはハワイ語で「噴き出す水」(Wai= fresh water; kiki= sprout)という意味である。元々湿地帯だったワイキキは、アラワイ運河の建設により排水が試みられ、また他の砂浜から砂を運んでワイキキビーチの建設も行われた、いわば資本主義の象徴的な観光地である。ハワイ大学からワイキキまでの道のりも今は完全にアスファルトだが、その昔は水が流れており、ハワイアンたちはワイキキから(現在の)ハワイ大の方まで魚を追い込んでいたのだという。彼らにとっての「ワイキキ」と現代の「ワイキキ」はどちらも「本物」だろうが、意味合いが全然違うのだ。

どちらがより「本物」でどちらが「正しい」という話では無い。そういう事を言い始めるとケンカになるから絶対止めた方が良い。どっちも正しくてどっちも本物なのである(ただ、もう一度言うが僕は「本物です」と銘打たれたものは基本的に大嫌いだ。好きになる事もあるが、「本物です」という理由だけで好きになりはしない。)。ただ、「本物です」と銘打たれる前の本物は当事者にとって意識されざるもので、銘打たれた「本物」は「本物化される前の本物」とは違う場合がある、という事。「本物」とはコンテクストと切り離す事が出来ないので、超時代的に「これが本物です」と断定する事は出来ないのではないだろうか。銘打たれた「本物」も意識されない「本物」も、それぞれのコンテクストの中で理解されるべきで、後者は時代と共に変わっていくものなんだと思う。

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