4/16/2012

抽象的思考と言語の話

この前のブログの続き。


学会の準備をしていてもう一つ気づいたのは、まぁ当たり前だが英語で物事を考える難しさだった。

日常会話で、自分の得意なことなら勿論話せる。
「どこ出身なの?」とか「いつ日本に来たの?」とか「あの子かわいいよね」とか。
そういうのはサークルで4年間やってきた事だから。

ただ、日常会話でも自分の専門外の話とか、或いはアカデミックな会話はとても出来ない。
自分に抽象的な思考をするだけの語彙力がなくて、その語彙を易しい言葉で言い換えるにしても、時間がかかりすぎるからだ。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「そうだね、ずっと同じ状態に居るようなものかな。僕の准教授も言っていたけどね、ポストモダンな考えではもう右肩上がりの経済成長は望めないのに、まだ僕たちはそのパラダイムの中でそうした成長を望んでいるよね。これからは脱成長の考え方が必要だと思うんだ。僕にもまだよく分からないけど。」

という会話は今の僕では絶対に出来ない(ドヤッ)。メールで30分くらいかければ書けるけど。
そして、限られた時間で限られた語彙を使って考え、会話すると、ごくごく簡単な思考で、ごくごく簡単な会話しか出来なくなる。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「うーん、良くはないと思うよ。」

以上(ドヤッ)。


これは先生とディスカッションしている時にすごく悔しかった事。自分はもっともっと言いたいのに、言えることもあるのに、言語力が無いために思考が出来ない。

つまり、複雑な思考力は、言語力(語彙力、文法力、それらを組み合わせる力全て)に比例する。

これが僕の二番目の気づきだった。当たり前の事だけど、日本語で会話している限り、多くの人がそれに気づけないと思う。自分は日本語を自在に操れて、自在に会話出来ていて、もし複雑な思考が出来ないとすればそれは自分の頭の回転が鈍いからだ、と考えがちではないだろうか。
確かに母語が日本語の我々は、99パーセント完璧な文法で日本語を操れる。しかし「ある事象」を表す語彙が「あるかないか」もまた、複雑な思考をするのに必要な要素なんだと思う。

例えば自分が「りんご」という語彙しか持っていなかったとしたら、全ての事象を「りんご」という言葉で説明せねばならず、これでは必然的に無理が生じるだろう。
では「丸い」、「四角い」という語彙が加わったらどうか。
更に「赤い」や「青い」という概念が加わっていったら・・・?

これは究極的には、一つの言語の中の語彙数は勿論、複数の言語を操れたらどこまで複雑な思考が出来るだろうか、という話になる。英語や日本語にしかない言語があるから、それを組み合わせたらどんな思考が出来るのだろうか。
今の僕にはまだ分からないけど、複数の言語を学んだら何が起こるか、未来の自分に答えを聞いてみたい。


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