1/09/2011

ある一冊の本から~国際交流について思うこと~

今、清水睦美さんの本を読んでいます。

清水睦美
2006, 『ニューカマーの子どもたち―学校と家族の間の日常世界―』 東京:勁草書房

卒論のためにも将来のためにも必要なので。
まだ全部読み切ってはいないのでブックレポートは別の機会にしたいと思いますが、今日は本書を読んでいて思いついたことを書きます。

本書は1980年代以降国際結婚や出稼ぎなどの理由で来日移住した、いわゆる「ニューカマー」と総称される外国人のうち、小中学校に通う子どもたちを対象にした研究書です。

さて、本書には書かれていませんが、文部科学省が毎年公表している「日本語指導が必要な外国人児童生徒の受入れ状況等に関する調査」によれば、平成20年9月1日現在で文部科学省が定める「日本語指導が必要な外国人児童生徒」の数は28,575人で、平成14年(18,734人)から増加の一途を辿っています(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/07/__icsFiles/afieldfile/2009/07/03/1279262_1_1.pdf)。

  本書は第一章で、そうしたニューカマーの子どもたちが自文化と日本文化との違いに戸惑いながらどのように日常世界を営むかを、筆者のフィールドワーク体験を基に描いています。
  著者がフィールドワークを行った2000年頃から現在まで、日本の学校の外国籍児童生徒の受け入れ態勢は、簡単に言ってしまえば「特別扱いしないことが望ましいが、言語の問題もあってそれは難しいし、その辺は配慮してあげて」という感じです。
  そうした曖昧な状況なので、結果的に「配慮」(文科省の言葉を借りれば「特段の配慮」)は日本語指導に不慣れな先生方が四苦八苦して行う、誰にとっても負担の多いネガティブなものとなります(もちろん文科省もこの事態を放置しているわけではありませんが、実態は今も変わっていません)。

  外国人児童生徒に対するサポートも十分問題ですが、本書で著者が焦点を当てているのは別の問題です。それは先生方が四苦八苦して行った「配慮」の結果「学校生活を問題なく行える」と判断された子どもたちは、途端に「特別扱いされない」生徒になることです(著者はこの「問題なく行える」状態を「やれている」状態と表現しています)。著者が問題のひとつとして提起しているのは、日本の先生方はこの「やれている」状態を、往々にして「日本語による学校生活に支障がないか否か」のみで判断してしまうことにあるとし、これを教師の「状況理解のスキップ」と称しています。
  つまり、生活言語が流暢であるからといって「勉強についていける」とは限らないわけですし(そんなこと言ったら日本人はみんな成績が同じになってしまう。笑)、生徒が先生の指示に反応しているのは、周りの生徒の反応に便乗している可能性も高いわけです。そうした外国籍児童特有の性格を見逃してはいけないということです。

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  さて、著者の問題提起とそれに対する解決はいずれ僕が書くであろうブックレポートにお任せするとして(笑)、ここからはこの問題から僕が考えたこと。
上に挙げた「特別扱いしないのが原則だが、特段の配慮も必要」という考え方、一見すると平等で当たり前のように思われます。日本人も外国人もみんな同じ人間だからーってね。
しかしそれでは、異文化で育った子どもを理解したことにはならないのです。彼らを「特別扱いしないこと」は彼らにとって「良い教育」たりえない。

理解とは何か。

以前書いた鷲田清一さんの言葉に尽きるのではないでしょうか。
「他人を理解するとは、他人は他人と認めることだ」

外国人は、どこまで行っても外国人なのです。日本人はいつまでも日本人なのです。
これは言い過ぎかもしれませんが、外国籍児童生徒に対する考えは「特段の配慮が原則で、特別扱いしない事は稀である」位で良い気がします。

ただし重要なのは、
「違うから、どうわかり合うか」
なんです。

  「彼らは彼ら。仕方ないから放っておこう」ではなく、「彼らにはこういう特徴があって、日本文化にはこういう特徴がある。ではどうやってわかり合うのか」を考える方向に。その方法を考えるのは文化人類学者(に限らず多くの分野)の大切な役目であり、また学校の先生方にもどうにかしてそうした研究の蓄積を共有して頂けたらと思います。
  僕は大学で国際交流サークルに入っていますが、よく「国際交流という言葉は嫌い!」という言葉をメンバーから聞きます。要するに「友達になるのに『外国』も『日本』も関係無いんだ!」という事ですが、僕は絶対違うと思っています。
  「国際交流」は確かに存在するし、むしろ国際交流の楽しみはそうした「文化の違い」を乗り越えた感情の共有にあると思っています。一つ一つの国が固有の文化を持っているのに、それを無視して「人間皆平等」とは言えないのではないでしょうか。



「違うから、どうわかり合うか」

この視点は、大学に入学してから僕の「国際交流」の基盤となっているのです。







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